key作品全般 その1

2007/10/16
Keyゲー考察・解説 約束と絆と思い出と
2007/10/21
死に至る病、不思議病
toppoiさんによる考察。
keyゲーに置ける不治の病とは何のメタファーなのか。奇跡とは何をさしているのか。について考察しているものです。
こういう自我の話になじまない方にとっては突拍子もなくみえるかもしれませんがとても興味深い考察です。

まず後半の「不思議病」と呼んでいるkey(というより麻枝作品)特有の不治の病から。とっぽいさんはこう書かれています。

なぜkeyゲーにおいて、記憶を失い、他者との繋がりが途絶えることが死に直結するのかといえば、それがあの箱庭世界において、自我とアイデンティティを保つ唯一のしるべだからである。不思議病によって、誰かとの思い出を失い、閉じ籠もって人とのつながりを失った人間は、もはや自己を見出すことができず、世界に留まることができないのだ。キャラクターは誰かを知覚し、誰かに知覚されることによって、初めてあの世界に在ることができるわけである。Keyゲーの世界観は非常に唯心論的だ。
 そんな他者との繋がりを希薄にし、自我を破壊せしめる病気を克服する方法は一つしかない。形骸化した関係と決別し、他者と新しく関係を結ぶことである。keyゲーのキャラクターはいつだってそうしてきた。

また、それを前提として「奇跡」とは、

Keyゲーにおける奇跡とは、キャラクターが、結果として、失われた絆の中に復帰し、アイデンティティと自我を確立させたことである。不思議病を癒すには、形骸化した関係を放棄し、その上で「他者」と絆を結びなおさなければならない。あるいは不思議病は輝く季節へ到達するための通過儀礼だと考える。

としています。

詳しい解説はそれぞれの記事を読んでいただいた方がいいと思いますが、
つまり、key作品における物語は、自我同一性確立過程を内在的に含んでおり、社会性の復帰をもって「奇跡」として表現されている。
それが感動を人の心に引き起こすのではないか、という仮説が成り立つのではないでしょうか。

母親のような自分にとって都合のいい人間から別れ、新しく別個の人間としての他者と出会いなおすこと。
現実にはそれらの別れと出会いというのは、心の中で内的心象として起きるものではあるのですが、それを表面的に見えるものとして扱っているのがこれらのkey作品の物語ではないかと。
ONEの長森シナリオはそれが同一人物の中で扱われているので比較的現実の過程に近く、とても好きです。

作品の中に「社会」という枠組みを組み込まないからこそ不安定な、不安定すぎるほどの脆弱な自己が描け、自己不安定から安定に向かう過程の対人関係の尊さ、絆と呼んでいるものに価値を置いた箱庭世界が描ける。
社会の枠組みになじめない人ほどこの箱庭世界に感動を覚え、社会の枠組みを自明のものとしているほど違和感を覚えるような作品群でもあるのだと思いますね。
ある意味では精神病的な世界が描かれているともいえるかもしれません。
特にMOON、ONE、AIR辺りまでの作品では顕著ですよね。
エヴァンゲリオン後、その類似作品とともに同時期にkey作品がはやりだしていたのは、こうした面での共通点があったからではないでしょうか。

そしてそこに社会というものを少しずつ組み込みはじめていった、描く対象が二者関係から三者関係へ変化していったCLANNAD以降の作品からはまた少しずつ質の違うものになっていると思います。
とっぽいさんは否定されている智代アフターですけれど、私はあれを見て、麻枝さん健康的になってきたなあ・・・と思ったものです。
しかし、これらの麻枝作品における感動というのは、別れそのものではなく過程をさしているのではないかという視点は変わらずあってもいいのかなと思うのです。