岡田麿里 その2

2009/2/24
オタ考察02.奈須きのこと岡田麿里の齟齬
しめすへんさん
奈須きのこさんと岡田麿里さんの人物像の描き方比較から

CANNANの出来うんぬんはおいておいて、ここで取り上げられるのは、岡田さんの描くキャラクターの多面性ですね。
一般的な二次作品だと、キャラクターはテンプレでわかりやすく、ぶれないのが好まれますよね。
さきほどからとりあげられる「成長」に関しても、わかりやすい道筋にそった成長物語が好まれます。

けれども岡田さんのキャラクターというのは、そうではなく、様々な面を、ときには矛盾した姿をみせてくれます。
それが人間らしさであり、リアリティがあるとされる部分なのかと思うのです。
性描写や感情描写もそうですけれども、あえて現実ではタブーとされがちなものを取り上げることもそうですね。
表には出さないような人の抱えている矛盾を目に見える形で表現することを意識的にされているようです。
実際に表に出してしまうところはリアルではなく、創作の世界ならではの表現なのですけどね。

キャラクターが多面性をもっているからこそ、物語自体がすっきりとしたものにはなりにくいですし、一面では読み取りにくさにつながっています。
けれども、その矛盾があるからこそ人の心をつかむことのできる人物描写にもなっているのではないでしょうか。
その描写に力をいれるばかりに全体のまとまりは薄れてしまうことも多々ありますので、手綱をとる人が必要、とも言われてしまうのでしょうね。


2011/6/26
岡田麿里脚本のノれなさについて ―アニメルカ、girl!、とらドラUST―
職業ニートさん

女性的な感覚との差異を取り上げた文が興味深かったです。
成長というもののとらえ方の違いについ具体的に書かれています。
その差は単純に男女の差でとらえられるものかはわかりませんが、少年漫画的な成長と少女漫画的な成長の違いといわれるととてもわかりやすいと思いました。

社会的な文脈に甘いこと自体は萌えアニメと呼ばれる、日常系と呼ばれる作品やエロゲ作品などにみられ、現代社会では女性特有であるとは思いません。
ただ、萌えアニメというのは男性向け作品に女性的な側面を取り込んで成り立っているとも論じられるので、男性の女性化の文脈でとらえてもいいかもしれないですね。

男性的な「成長」「社会参加」という枠組みの強い方ほど岡田作品がうけいれられないというのは確かにその通りだろうなと感じます。
とらドラ!は原作者も女性ですし、竜児からして女性的ですよね。
CANAANフラクタルみたいな男性的な価値観の世界では、岡田さんの個性を活かすことが難しいのもうなづけます。

花咲くいろはの働く女性観はとても女性らしくかなり興味深いものがありました。
花咲くいろはの感想にはそれぞれのもつ仕事観と母親観が如実にみられましたよね。
どういう形が正しいというのがあるわけではないでしょうが、現実に生きる女性がどう働いているか、それをみて周囲はどのように感じているのか、男性では確実に描けない世界でした。こういうものをこれまでみたことがないというのは、やはり作品企画というのは男性主導ですすめられてきていたのだなということを実感させられるものでもありました。
岡田作品が女性人気もあるのだとすれば、女性ならではのものの見方が含まれていることは大きいと思いますね。
いろはの職場環境はリアルじゃないといわれますが、女性にとって働きやすい環境というのは現実的にありえない、ということかもしれません。


2011/6/7
『花咲くいろは』緒花は孝一と徹、どちらとくっつくの?〜岡田麿里作品の異性研究〜
ルイさん
岡田作品におけるキャラクターの配置についての話。

作品を観てきた人はもうおわかりかもしれませんが「人生を共に歩む異性と、心を支える異性を分ける」。
それが岡田麿里の好む「型」ではないか、という視点です。
付け足すならば、その2人までが個人の認識できる「異性」の限界で
それ以上の人数は「3人目」として彼女の好むテーマ(と推測します)「断念」なりを担当する事になる、と。

いうことをいくつかの作品をもとに提示しています。

それはそれで興味深くおもしろい論点なのですが、気になったポイントは

そのような一人に完全に立脚する関係性を、いまいち信じきれていないのでしょうか?

という問いかけでして。

これもすごく女性的な感性なんじゃないかなあと。
というのは、「精神と肉体とわけて考える」というのは、例えばオタク女子なら「二次元と三次元は別」と言い切ることですよね。この言葉よく見聞きしませんか?
逆にそういうオタク男性はあまり見かけません。声優・アイドルファンでもどちらかといえば、処女厨と言われる存在にみられるように、精神と肉体とを同一視しているような印象があります。
オタクに限らずとも、韓流のおっかけをするおばちゃんに見られるように、「(人生を歩む)旦那と(心を支える)スターは別」という考え方は、多くの女性が当たり前のようにもっていますし、男性は奥さんに心を支える存在でもあってほしいと望みます。
もちろん少女漫画や乙女ゲーの世界のように、それがイコールになるのが理想っていうのは変わらないですけど、女性の方がそのことに「断念」しているわけですね。

花咲くいろはの場合、最終的にこうちゃんとうまくいったわけですが、それはこうちゃんと「精神と肉体をイコールにした」というのではなくて、「精神と肉体がイコールになることを緒花が断念したからこそ告白できた」結末なのだと思うのですよね。
つまり精神よりも肉体としてのこうちゃんをとったということですね。

肉体をみてともに歩むってことは自分にとって都合の悪い相手の一面もみることになるわけで、精神としての理想を失うってことと同義だと思うのですよ。
理想を理想のままとっておきたいのならヒロインとは結ばれないのがいいんです。
だからこそ乃絵もめんま尊い存在としていられるのです。
緒花は「自分にとって都合のいいこうちゃん」を失うことに迷いがあったからこそこうちゃんの告白に一度答えられなかったとも言えますよね。
でも実際五十嵐さんの存在を目の当たりにして「都合のいい存在ではなかった」ことに気づくわけですね。
それは表面的にはとられるとられないの話にみえますけど、緒花の内面でいうなら、「理想のこうちゃん」を断念したということなのです。

この変化の過程は女性主人公だからこそ、描ける話なのかもしれないですねー。
昔は男性主人公もこの過程をやってたはずなんですけど、いつの間にやらみられなくなりましたねえ・・・
完全に思いつきですけど、あの花のゆきあつや放浪息子の二鳥くんで描かれていた女装というのは、少し形は違えど理想の精神と自分の肉体とを一致させることということであるわけで、岡田さんの男性観からきているものなのかもしれませんね。