はじめに。

ここは、ゆきたまが気になった記事を蓄積するためだけの場所です。
アニメ・漫画・ゲーム・声優・音楽など内容は偏りつつ広め。
考察・批評系の作家・物語論が中心になるかとは思います。

そのとき思ったり考えたり感じたことなどは記載しますが、
とりたてて論理的な批評等はしないつもりなのであしからず。

岡田麿里 その2

2009/2/24
オタ考察02.奈須きのこと岡田麿里の齟齬
しめすへんさん
奈須きのこさんと岡田麿里さんの人物像の描き方比較から

CANNANの出来うんぬんはおいておいて、ここで取り上げられるのは、岡田さんの描くキャラクターの多面性ですね。
一般的な二次作品だと、キャラクターはテンプレでわかりやすく、ぶれないのが好まれますよね。
さきほどからとりあげられる「成長」に関しても、わかりやすい道筋にそった成長物語が好まれます。

けれども岡田さんのキャラクターというのは、そうではなく、様々な面を、ときには矛盾した姿をみせてくれます。
それが人間らしさであり、リアリティがあるとされる部分なのかと思うのです。
性描写や感情描写もそうですけれども、あえて現実ではタブーとされがちなものを取り上げることもそうですね。
表には出さないような人の抱えている矛盾を目に見える形で表現することを意識的にされているようです。
実際に表に出してしまうところはリアルではなく、創作の世界ならではの表現なのですけどね。

キャラクターが多面性をもっているからこそ、物語自体がすっきりとしたものにはなりにくいですし、一面では読み取りにくさにつながっています。
けれども、その矛盾があるからこそ人の心をつかむことのできる人物描写にもなっているのではないでしょうか。
その描写に力をいれるばかりに全体のまとまりは薄れてしまうことも多々ありますので、手綱をとる人が必要、とも言われてしまうのでしょうね。


2011/6/26
岡田麿里脚本のノれなさについて ―アニメルカ、girl!、とらドラUST―
職業ニートさん

女性的な感覚との差異を取り上げた文が興味深かったです。
成長というもののとらえ方の違いについ具体的に書かれています。
その差は単純に男女の差でとらえられるものかはわかりませんが、少年漫画的な成長と少女漫画的な成長の違いといわれるととてもわかりやすいと思いました。

社会的な文脈に甘いこと自体は萌えアニメと呼ばれる、日常系と呼ばれる作品やエロゲ作品などにみられ、現代社会では女性特有であるとは思いません。
ただ、萌えアニメというのは男性向け作品に女性的な側面を取り込んで成り立っているとも論じられるので、男性の女性化の文脈でとらえてもいいかもしれないですね。

男性的な「成長」「社会参加」という枠組みの強い方ほど岡田作品がうけいれられないというのは確かにその通りだろうなと感じます。
とらドラ!は原作者も女性ですし、竜児からして女性的ですよね。
CANAANフラクタルみたいな男性的な価値観の世界では、岡田さんの個性を活かすことが難しいのもうなづけます。

花咲くいろはの働く女性観はとても女性らしくかなり興味深いものがありました。
花咲くいろはの感想にはそれぞれのもつ仕事観と母親観が如実にみられましたよね。
どういう形が正しいというのがあるわけではないでしょうが、現実に生きる女性がどう働いているか、それをみて周囲はどのように感じているのか、男性では確実に描けない世界でした。こういうものをこれまでみたことがないというのは、やはり作品企画というのは男性主導ですすめられてきていたのだなということを実感させられるものでもありました。
岡田作品が女性人気もあるのだとすれば、女性ならではのものの見方が含まれていることは大きいと思いますね。
いろはの職場環境はリアルじゃないといわれますが、女性にとって働きやすい環境というのは現実的にありえない、ということかもしれません。


2011/6/7
『花咲くいろは』緒花は孝一と徹、どちらとくっつくの?〜岡田麿里作品の異性研究〜
ルイさん
岡田作品におけるキャラクターの配置についての話。

作品を観てきた人はもうおわかりかもしれませんが「人生を共に歩む異性と、心を支える異性を分ける」。
それが岡田麿里の好む「型」ではないか、という視点です。
付け足すならば、その2人までが個人の認識できる「異性」の限界で
それ以上の人数は「3人目」として彼女の好むテーマ(と推測します)「断念」なりを担当する事になる、と。

いうことをいくつかの作品をもとに提示しています。

それはそれで興味深くおもしろい論点なのですが、気になったポイントは

そのような一人に完全に立脚する関係性を、いまいち信じきれていないのでしょうか?

という問いかけでして。

これもすごく女性的な感性なんじゃないかなあと。
というのは、「精神と肉体とわけて考える」というのは、例えばオタク女子なら「二次元と三次元は別」と言い切ることですよね。この言葉よく見聞きしませんか?
逆にそういうオタク男性はあまり見かけません。声優・アイドルファンでもどちらかといえば、処女厨と言われる存在にみられるように、精神と肉体とを同一視しているような印象があります。
オタクに限らずとも、韓流のおっかけをするおばちゃんに見られるように、「(人生を歩む)旦那と(心を支える)スターは別」という考え方は、多くの女性が当たり前のようにもっていますし、男性は奥さんに心を支える存在でもあってほしいと望みます。
もちろん少女漫画や乙女ゲーの世界のように、それがイコールになるのが理想っていうのは変わらないですけど、女性の方がそのことに「断念」しているわけですね。

花咲くいろはの場合、最終的にこうちゃんとうまくいったわけですが、それはこうちゃんと「精神と肉体をイコールにした」というのではなくて、「精神と肉体がイコールになることを緒花が断念したからこそ告白できた」結末なのだと思うのですよね。
つまり精神よりも肉体としてのこうちゃんをとったということですね。

肉体をみてともに歩むってことは自分にとって都合の悪い相手の一面もみることになるわけで、精神としての理想を失うってことと同義だと思うのですよ。
理想を理想のままとっておきたいのならヒロインとは結ばれないのがいいんです。
だからこそ乃絵もめんま尊い存在としていられるのです。
緒花は「自分にとって都合のいいこうちゃん」を失うことに迷いがあったからこそこうちゃんの告白に一度答えられなかったとも言えますよね。
でも実際五十嵐さんの存在を目の当たりにして「都合のいい存在ではなかった」ことに気づくわけですね。
それは表面的にはとられるとられないの話にみえますけど、緒花の内面でいうなら、「理想のこうちゃん」を断念したということなのです。

この変化の過程は女性主人公だからこそ、描ける話なのかもしれないですねー。
昔は男性主人公もこの過程をやってたはずなんですけど、いつの間にやらみられなくなりましたねえ・・・
完全に思いつきですけど、あの花のゆきあつや放浪息子の二鳥くんで描かれていた女装というのは、少し形は違えど理想の精神と自分の肉体とを一致させることということであるわけで、岡田さんの男性観からきているものなのかもしれませんね。

岡田麿里 その1

2009/9/25
『とらドラ!』─コミュニケーションの桎梏と希望のはざまで─その1
『とらドラ!』─コミュニケーションの桎梏と希望のはざまで─その2
『とらドラ!』─コミュニケーションの桎梏と希望のはざまで─その3
宮田智史さん
とらドラ!における「ゆるやかな擬似共同体」と「理解しあうことの断念」を中心とした論考。

この文章の結びの

<特別な誰か>やただひとつの関係からの承認を期待するのではない、キャラクターたちの成長と変化。それは、はじまりがあって、終わりがあって、またはじまりが来るような、そんな関係性のモデルともいえるし、特定の他者に対して、自分がまったくの無力であることが、むしろ救いであるような、そんなポジティブなのかネガティブなのか簡単には分からないモデルでもある。

が、岡田さんの描く世界の特徴であるともいえるのかもしれません。
実乃梨や亜美以外にもttの乃絵の描き方なんかはわかりやすいかもしれませんね。
あの花のじんたんやゆきあつ、あなる、つるこもそうした面が描かれていました。

この「断念」を成長とみるか停滞とみるか、とらえ方が人によって違うので、議論がずれることが多いのかもしれません。
特定の他者と接することによって初めて他者にたいして無力である自分を知りそれを受け入れること、は自分の無力さを知ることでもあって、とても大切なことなのですよね。
ただ、その先の世界までは物語の中で描かれないのでわかりにくいのかもしれません。目に見える形ではなく、内面的な変化ですしね。
岡田麿里脚本は成長物語か、という問いかけの答えも、成長というものをいかにとらえるかによって違うのだと思います。


2011/12/8
自分なりの岡田麿里論みたいなものと、異色の岡田作品としての「スケッチブック〜full color'S〜」
tunderealrovskiさん

申し訳ないことにスケッチブックをみたことがないのですが、ここで「成長」と書かれているのも他者とのふれあいの中で生まれる主人公の内面的な変化の話なのだろうと思いました。
表面的な部分の見せ方にこそ違いはあれ、テーマとして一貫しているということがみえるのかなと。


2011/3/5
『放浪息子』と放浪するニワトリ――岡田麿里試論
反=アニメ批評さん
岡田作品のもう一つの特徴である性描写について

実際にはもっと直接的な表現で岡田さんから提示されているものを象徴的な映像に置き換えていく作業をしているらしい・・・というのが様々な媒体でのインタビューの所々に窺えておもしろいですよね。
結果的に作品としてはその方がおもしろくなっているような気がします。
岡田さんと監督のせめぎあいが各作品で行われてるのでしょうね・・・
岡田作品といえば女装少年へのこだわりも気になるところです(ただの好みかもしれないですけど)。

なぜ物語の中で性描写を描く必要があるのか・・・
自分の中でもまだまとまらないところではありますが、ただ衝撃的であるからという理由だけではなく、思春期の子の物語には自分の性と向き合うことが切っても切り離せない自然なものである(記述しないのが不自然である)ととらえているのかもしれないですね。

key作品全般 その1

2007/10/16
Keyゲー考察・解説 約束と絆と思い出と
2007/10/21
死に至る病、不思議病
toppoiさんによる考察。
keyゲーに置ける不治の病とは何のメタファーなのか。奇跡とは何をさしているのか。について考察しているものです。
こういう自我の話になじまない方にとっては突拍子もなくみえるかもしれませんがとても興味深い考察です。

まず後半の「不思議病」と呼んでいるkey(というより麻枝作品)特有の不治の病から。とっぽいさんはこう書かれています。

なぜkeyゲーにおいて、記憶を失い、他者との繋がりが途絶えることが死に直結するのかといえば、それがあの箱庭世界において、自我とアイデンティティを保つ唯一のしるべだからである。不思議病によって、誰かとの思い出を失い、閉じ籠もって人とのつながりを失った人間は、もはや自己を見出すことができず、世界に留まることができないのだ。キャラクターは誰かを知覚し、誰かに知覚されることによって、初めてあの世界に在ることができるわけである。Keyゲーの世界観は非常に唯心論的だ。
 そんな他者との繋がりを希薄にし、自我を破壊せしめる病気を克服する方法は一つしかない。形骸化した関係と決別し、他者と新しく関係を結ぶことである。keyゲーのキャラクターはいつだってそうしてきた。

また、それを前提として「奇跡」とは、

Keyゲーにおける奇跡とは、キャラクターが、結果として、失われた絆の中に復帰し、アイデンティティと自我を確立させたことである。不思議病を癒すには、形骸化した関係を放棄し、その上で「他者」と絆を結びなおさなければならない。あるいは不思議病は輝く季節へ到達するための通過儀礼だと考える。

としています。

詳しい解説はそれぞれの記事を読んでいただいた方がいいと思いますが、
つまり、key作品における物語は、自我同一性確立過程を内在的に含んでおり、社会性の復帰をもって「奇跡」として表現されている。
それが感動を人の心に引き起こすのではないか、という仮説が成り立つのではないでしょうか。

母親のような自分にとって都合のいい人間から別れ、新しく別個の人間としての他者と出会いなおすこと。
現実にはそれらの別れと出会いというのは、心の中で内的心象として起きるものではあるのですが、それを表面的に見えるものとして扱っているのがこれらのkey作品の物語ではないかと。
ONEの長森シナリオはそれが同一人物の中で扱われているので比較的現実の過程に近く、とても好きです。

作品の中に「社会」という枠組みを組み込まないからこそ不安定な、不安定すぎるほどの脆弱な自己が描け、自己不安定から安定に向かう過程の対人関係の尊さ、絆と呼んでいるものに価値を置いた箱庭世界が描ける。
社会の枠組みになじめない人ほどこの箱庭世界に感動を覚え、社会の枠組みを自明のものとしているほど違和感を覚えるような作品群でもあるのだと思いますね。
ある意味では精神病的な世界が描かれているともいえるかもしれません。
特にMOON、ONE、AIR辺りまでの作品では顕著ですよね。
エヴァンゲリオン後、その類似作品とともに同時期にkey作品がはやりだしていたのは、こうした面での共通点があったからではないでしょうか。

そしてそこに社会というものを少しずつ組み込みはじめていった、描く対象が二者関係から三者関係へ変化していったCLANNAD以降の作品からはまた少しずつ質の違うものになっていると思います。
とっぽいさんは否定されている智代アフターですけれど、私はあれを見て、麻枝さん健康的になってきたなあ・・・と思ったものです。
しかし、これらの麻枝作品における感動というのは、別れそのものではなく過程をさしているのではないかという視点は変わらずあってもいいのかなと思うのです。

麻枝准 その1

麻枝准メロディー“麻枝節”研究会
taka_muscleさん。
麻枝さんの音楽について検討している興味深いブログです。
メロディーやコード進行の独自性など音楽論に興味がある方によいと思います。


2007/6/30
麻枝准の上下感覚
疏水太郎さん。
key作品と食べ物というのはきっても切り離せないのはよく知られていることと思いますが、食べる場所についての視点が興味深かったです。

なぜ舞、真琴、浩平、往人といった、ここであげられたような麻枝キャラは地べたで食べるのが自然に感じるのか・・・
逆にいえば、長森とCLANNAD以降のキャラクターはそうではないということ。あ、鈴は前者側かな。
例えば、地に足のついていない現実感の乏しいキャラクターほど地面に近いところで食事をとる、とか。
いろいろ考えてみるとおもしろそうです。

それは後半の論点でもある上下感覚ともつながるものですね。
渚と朋也が坂の上の高校を眺めるとき。校舎を見上げるとき。
そこに象徴されているものは何か。
地下へのこだわりは何を指すのか。

この辺りの論点はAngelBeats!で映像化されてからかなり検討されていた気がしますが、テキスト上でも意識されているということが麻枝さんの文章の特徴であるともいえそうですね。


2010/5/22
『Angel Beats!』における再帰性――京都アニメーション・Key・麻枝准
反=アニメ批評さんのAngelbeats!と他作品の類似点まとめ。

似ていることについては何の反論の余地もないですよね。
反アニさんはMAD的と書かれていますが、AngelBeats!は麻枝さんの思うおもしろいもの、売れているもののつめあわせ作品。

なぜこうなったし、っていう理由はいろいろあるとは思いますが、その原因の一つは「麻枝さんは自分の好きなように書いたものは評価されない、ということに自覚的であるところ」ではないかと感じていました。
ONEでの評価、そして智代アフターでの評価。
麻枝信者からすれば、それらのよいところも疑いのないものであると思うのですが、一般受けしたかといわれれば麻枝さん独自の感性はむしろ否定されるものであったようです。
CLANNADにおける渚の復活や、リトバスでの全員生還エンドも同じく「(求められているから)つけ加えなければいけなかったもの」だと思うと、そこには葛藤があったことと思います。

そんな麻枝さんだからこそ、売れているものよいものを取り入れたいということにはすごく熱心ですよね。
ガルデモの曲だって、これが麻枝准の曲なの?っていうくらいにはポップになっていましたし。
アニメである、ということを意識すればこそ、人気のあるアニメの要素を取り入れようと思い、こうなったんだろうなというのは容易に想像できます。
それはありがちな失敗であるともいえますが。

もちろんAngelBeats!という作品には麻枝さんらしさもたくさんつめこまれていると思います。
それらがうまく交じり合わずに要素だけが多くなってしまったということもあったかなと。
うまく構成しなおせばマクロスFのようにはなりえたかもしれませんが、河森監督のようなバランス感覚でもって作品をまとめるのも相当難しいことでしょうしね。

麻枝さん好きとしては周囲の評価にこだわらずとも自身の個性を活かした作品をこれからもつくってほしいと思いますが、売れない、もしくは批判されるんだろうと思うと手放しで続けてください、とはとてもいえないです。
これまでもkey作品において麻枝さん自身の自覚と周囲の評価がずれているところ・・・つまり、key作品において広くよいと言われているものは麻枝シナリオではなく、麻枝演出ではないかということが共有されていかないことが不思議だったので、アニメで多くの人の目にふれ、それが明確になっていったことは、むしろよかった面もあるのかなと個人的には思います。

その上で「麻枝准のよさ」というものを再評価していく流れが今後あったらなお嬉しいですね。
確実に自分のように「麻枝准のシナリオ」にひかれている人間も数多くいるわけなので。
例えば、AngelBeats!でいうならゆりメインで、音無とゆりがいろいろな体験や想いを共有しながらも最終的には結ばれないような物語がみたいんですよ。
一般受けするかって言われればしないとわかっていても。
それが麻枝准らしさだと広く受け入れられた上で評価される時代はこないんですかね?

魔法少女まどか☆マギカ その3

2011/4/241
魔法少女まどか☆マギカは本当に魔法『少女』の物語だった
けやきさんの感想。
彼女達の物語は「少女」の純粋さを描いた物語である。という見解がとてもいいなと思ったのです。

少女らしさとは大きな望みをもつことであって、それは時には大きな悲劇を、時には大きな奇跡をおこすもの。
その魅力が両面描かれた作品ですよね。まどか☆マギカは。
悲劇の方が大きいかな。
しかし、そこにある想いはどれも等しく価値のあるものなのです。


2011/4/28
『魔法少女まどか☆マギカ』〜決意と祈りの物語
LDさん。最終話でまどかの守ったものは何か。というお話。

彼女は魔法少女たちの祈りを守った。それは魔法少女の凡てを知ったまどかが信じる“一番大切なもの”だからですね。

この祈り・・・想いが何より大切っていうのがとてもとても少女らしいところですよね。
結果よりもそこにいたるまでの気持ちを大切にする、って大人は忘れてしまうことかもしれないです。

結果を重視すれば、世界を悲劇の起きない世界に改編する、ということを望みますよね。
そんなハッピーエンドを望んでいた方も多いことと思います。
けれども「魔法少女になって願いを叶える」という夢もきっとまどかにとっては捨てられないものだったのではないでしょうか。
ただ、魔女化はみんな望んでいないので、そこはなしにする、と。
そんな単純な考えだったのかもしれない。

魔法少女を救いたいとか、そこまでたいそれたことも考えていなかったかもしれない。
ほむらたち過去からこれまでの魔法少女をみて、「魔法少女」というもののもっている希望や夢を大事にしたいと、私たちが物語の中の魔法少女をみて感じるように、まどかも思ったっていう、そういう話だったのかもしれないなって思うのです。

魔法少女まどか☆マギカ その2

2011/5/3
モノクロのアニメ 魔法少女まどか☆マギカ批評 前編
モノクロのアニメ 魔法少女まどか☆マギカ批評 後編
ゴブニュさんまどマギ批評。
本当も意味で興味深いと思ったのは前編のフラクタル批評なのですが、それはとりあえずおいておいて。
まどか☆マギカがなぜ多くの人間に評価されているのかという話。
 1、視聴者に感情移入させる仕組み。
 2、物語を見せるための巧みな構成。
 3、魅力的な映像、音楽、演技といった要素。
このうち1と2の要素についてを中心に書かれている記事ですね。

まどか☆マギカという作品に関して、2、3はおもしろくみさせてもらい私自身も異論はありません。
ただし1については自身の年齢もあるでしょうが、彼女たちに感情移入してはみられず、客観的に彼女たちを見守る形で視聴をしましたので、体感としてはよくわかりません。

そこでフラクタルとの比較がとても興味深かったんですが、感情移入させる仕掛けの一つはキャラクターを理解させるための構成であるという論ですね。
「なぜ、このキャラクターがこういう行動をとっているのか」ということがわかることが最低限感情移入のために必要であるという話。
つまり、見ず知らずの理解できない他人の死に泣くことはできない。
AngelBeats!の話でもここがひっかかって批判されることが多かったように思いました。

しかし、私がこの話でいつも気になるところは、「理解できない他者」のことをなぜ想像しないのか?というところ。
想像できるヒントが作品内にあるかどうかはもちろん大きいとは思います。
まどか☆マギカはそれを丁寧に見せてくれる作品であればこそ、多くの人に理解された、というのはよくわかります。
しかし、想像させることを前提とした作品は否定されるものなのか。
そこには疑問を感じてしまうのです。

私がフラクタル批評を興味深いと感じているのは、それが現実をありのままに示しているように見えるからです。
フラクタルという作品が現実のあり方そのもの、っていうだけではなく、作品をみる視聴者の視点も、現実の理解できない社会、他者をつまらないと考えるのと同じように、この作品をみているよう。
フラクタルという作品が山本監督が世間をみる視点を表象しているのと同様、この作品をみている人が世間にをみる視点が意見に反映されているように見えるからです。
まるで映し鏡のような作品ですね。

まどか☆マギカは視聴者に優しく、アニメらしく、わかりやすく丁寧な作品です。
少女たちの行動原理はわかりやすく、彼女たちをとりまく社会も小さく、であればこそ感情移入もできるのかもしれません。
ただ、アニメというものはそれを必ずしも目指すべきものなのか、と問われるとどうなんでしょうね?

私自身が感情移入できなかったのは、彼女達の行動があまりにも感情的ではなく論理的に理解ができうるものだったからだとも言えます。
「感情」っていうのはそういう理屈で量れるものではないんじゃないか、というのが個人的な見解です。
そういう「理解できる他者の感情を扱っている」意味で、まどか☆マギカエヴァンゲリオンとはまた質の違うもの、と言えるのではないでしょうかね。


2011/5/4
さやわか×村上裕一 対談:魔法少女まどか☆マギカ
さやわかさんと村上裕一さんの対談。
まどか☆マギカについて様々な作品と比較しながら語られています。

一番おもしろいと感じたのはさやわかさんのまどかの結末についての考え方。

僕もシナリオのレベルで論理的な首尾一貫性を感じました。
というのも、最初から実はまどかって「魔法少女になれる」と言われた時に、まずは衣装をノートに落書きしたりするようなイノセンスが勝っているような人なんですよね「魔法少女は夢と希望を与える存在」ということを子供に近い感覚で信じている。
だから、あのラストの選択は最初っから一貫してたんだなあって思いました。
で、「こんなの絶対おかしいよ」って6話で彼女が言ってたのは、バトルロワイヤル的な空間、ゼロ年代的な空間に置かれてしまった「魔法少女もの」ということに関しておかしいと言っていたわけですね。
ゼロ年代には少年少女が戦うという不条理を、バトルロワイヤル的なゲーム性を導入することで成り立たせていたんですが、そこに異を唱えている。だから自分はそこにコミットしない、絶対組みしないんだってことを言ってるんですね。
途中、何回かへこたれて「誰かを助けたい」みたいな気持ちで魔法少女になろうとするんだけど、みんな止めるんです。まどかがほんとに望んでいるのは、そんなことではないからですよね。
じゃあ最後にどうするのかっていったら、「魔法少女もの」というジャンルを救うみたいなところに落ち着けたのかなあと。
だから必然的にメタ的になるんですけど、そもそもまどかは、ノートに書くという仕草に象徴されていますけど、メタ的な考え方に踏み出しているキャラクターだったのでしょうね。

これを読むとつまり・・・なのは批判から始まってるのかな、とは思ってしまうんですけどもw
魔法少女ってそういうものじゃないでしょう、っていう。

ただお二人も触れられているように、まどかのイメージする魔法少女って、大人になるミンキーモモやクリーミィマミらや願いを叶えるおジャ魔女やマリーベルタイプの魔法少女というよりも、物語の設定もあってセーラームーンプリキュア的な「戦闘美少女としての魔法少女」が大きいので、昔ながらの魔法少女ともまた少し違う、まさに今の子の思う「魔法少女像」の回帰ではあるんでしょうね。
まどかの家庭環境も現代風の働くママと主夫的なパパなのですし。
女性としての生き方、成長、アイデンティティというものも内在的に扱った作品であることは違いないでしょうね。
そこがまた女性人気にもつながったのかもしれないですね。

さらに、成長という観点では、さやわかさんはこう語られています。

だから普通に見れば単純な成長物語の構図だと思うんですよ。
まどかは親からさまざまに教えを受けながらも最後に自立して大人になったんだという解答に見えなくはない。けど、実際のところ母親のアドバイスは有効に機能してないし、お互いに話している内容は最後まですれ違っている。
これは親が子を教育したり両者が対立するような近代的な親子像じゃないんですね。むしろそうでない親子関係を描こうとしている。だから、近代的な親子関係から導き出される典型的なまどかの成長物語というのとは少し違う。
それにまどかは子供の想像力で子供を救ったわけですよね。弟の心の中にまどかみたいなものが残っているのは象徴的ですが、無数の魔法少女の物語、イノセンス、ファンタジーを救うというメタ的な解決を行ないながらも、自分がイノセンス自体を使って救うって話だから。実は大人になってない。

子どもだからこそできる解決方法をとっているという点で、まどか☆マギカの結末はありなのではないかと。
きっと、まどかが「大人」に成長したとしたら、さやかのようにいろいろなことに絶望してすべてを終わらせるエンディングを選んでいたかもしれないですよね。
幼児的な願望を保持していればこそ、あの結末がありえたという。
村上さんのそれを叶えられたのもほむらがいてほむらを救いたいと思ってこそ、という話も。
あくまでも、「友達として」ほむらを救う、みんなを救うことを考えたからこその結末であるという。
お二人のまどかは概念になって「母性的な」神になったということを否定する考え方がいいなと思いました。

あと引用の前半に書かれている親子関係ていうのは機能してないと否定されるのかもしれないですけど、現代の家庭はこういう感じなんじゃないかと思うのですけれどね。何十年も昔から親子関係ってそういうものなのじゃないかなと。
その中でも子ども達は成長していて、その成長過程の子たちがまどかのような子であり、まどかをみている現代の子たちでもあると、私自身はそう感じさせられるものがありました。
中学生、小学生にまで幅広く視聴されるのは、そういう点でも共感できる面があるのではないかと。

あと、村上さんの「ほむらは90年代的心理主義をまとった魔法少女である」という主張も興味深く。
ほむらがまどかに救われる、というのは、まるでエヴァンゲリオンに心奪われた視聴者たちが、まどかの幼児性(もしくは母性)に心を救われるような・・・そんな現象を表しているようにすら見えてきますね。
まるでアニオタが大きいお友達向けアニメを楽しくみている現象そのままではないかなって。
深夜アニメ視聴者がほむらに感情移入してみることができることは、まどか☆マギカ人気の一つの要素なのかもしれません。